| 蒙古襲来絵詞 [もうこしゅうらい-えことば] |
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■「蒙古襲来絵詞」
「蒙古襲来絵詞」 [もうこしゅうらい-えことば] は鎌倉時代の肥後国御家人である竹崎季長 [たけざき-すえなが] が作成したもので、文永・弘安の役(元寇)の様子が絵と詞書に克明に記録されています。
■「蒙古襲来絵詞」(九大本)全体画像「蒙古襲来絵詞」の原本(宮内庁所蔵)は、熊本藩士である大矢野家が所蔵していました。18世紀末にこの絵巻物が発見されると、大名や文人たちの関心をよび、多くの模本が作成されました。「蒙古襲来絵詞」の模本は、現在のところ40種類ほどが知られており、本ページでご紹介する九州大学附属図書館所蔵の「蒙古襲来絵詞」(九大本)は、江戸時代後期に肥後の阿蘇神社にあった模本をさらに写したもので、楽翁本(宮崎県立総合博物館所蔵)と同じ系統の模本です。楽翁本は、寛政年間(1789〜1800)に松平定信が写させたものであることから、九大本はかなり早い時期の模本といえます。このため、原本では破損して読めない詞を判読できる部分もあり、学会でも著名な模本の一つです。
※本ページでは九大本の絵・詞の配列を一部変更し、場面ごとに解説しています。
※原史料保護のため、一般公開はしておりません。 ※本ページに掲載する画像の無断使用を禁止します。 |
| 弘安の役 |
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南宋を滅ぼした元は、東路軍(元 高麗)と江南軍(元 南宋)合わせて軍船45000艘・兵員140000人の大軍を組織し、1281年再び日本遠征に向かいました。
先に出発した東路軍は博多湾に侵入しましたが、石築地(元寇防塁)や武士の元船への攻撃で上陸できませんでした。
江南軍と合流し再び博多湾を目指す途中、長崎県鷹島沖で暴風雨に遭い、多くの軍船が沈み、退却しました。
■蒙古兵、志賀島に上陸
【解説】
弘安4年6月6日、蒙古軍(東路軍)4万人が博多湾に侵入し、志賀島 [しかのしま] に上陸して戦闘を開始した。ここには「志賀島大明神」の鳥居付近の蒙古兵が描かれている。 ■季長、河野通有の屋敷を訪ねる
【解説】
志賀島の合戦で軍功をたてた伊予国御家人河野通有 [こうの-みちあり] が、屋敷を訪れた季長に戦闘の様子を語っている場面。ちなみに、通有は烏帽子(えぼし)を着けていないが、河野家では合戦の最中に烏帽子を着けないことが慣わしであったらしい。(画面右から1人目=季長、2人目=河野通有、3人目=嫡子河野八郎) ■季長、生の松原の石築地の前を通過する
【解説】
季長が志賀島へ向けて生の松原 [いきのまつばら] を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地 [いしついじ] に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房 [きくち-たけふさ] 。 【参考】 石築地(元寇防塁)の写真 ■季長の兵船、生の松原から鷹島に向かう
【解説】
石築地と日本軍の防戦により上陸を阻止された東路軍は、江南軍(10万人)との合流のために肥前鷹島へ撤退したところ、暴風雨に遭遇して壊滅状態となった。ここには、閏7月5日に残敵掃蕩のため生の松原から鷹島にむけて出発する季長の兵船が描かれているが、この船に季長は乗船していない。自分の兵船の到着を待ちかねた季長は、他人の兵船に便乗して、既に出発していたのである。 ■鎮西御家人の兵船、敵船に向かう
【解説】
閏7月5日の鎮西御家人 [ちんぜいごけにん] 等による蒙古兵掃蕩戦が描かれている。画面左から「関東御使かうたの五郎義としの手の物」「筑前国御家人あきつきの九郎たねむねのひやうせん」「あまくさの大やのゝ十郎たねやす・同三郎たねむらひやうせん」「くさのゝ次郎つねなりのひやうせん」「大宰小弐経資手物兵船」及び薩摩国守護島津久親 [しまづ-ひさちか] の兵船。 ■季長、敵船に乗り込み蒙古兵を討取る
【解説】
季長が敵船に乗り込み、蒙古兵を討取る場面。なお、画面右の「大矢野三兄弟 種保」の注記は、本来「たかまさ」となっていたものを、江戸時代に「蒙古襲来絵詞」の原本を所有していた大矢野氏が改竄 [かいざん] したものである。 ■季長、安達盛宗に軍功を報告する
【解説】
首実検の様子が描かれている。季長は蒙古兵の首級を提示して安達盛宗 [あだち-もりむね] に軍功を報告し、認定された軍功を「執筆」[しゅひつ]が記録している。なお、安達盛宗は当時の肥後守護・安達泰盛の嫡子で、父の代理として肥後に下向していた。 ■永仁元年、「蒙古襲来絵詞」が成立する
【解説】
「蒙古襲来絵詞」は永仁元年[正応6](1293)年2月9日に成立した。老境に近づいた季長が、恩人・安達泰盛への鎮魂と報謝のために絵詞を作成したとする説がある。弘安8年(1285)、泰盛は北条得宗家の内管領・平頼綱 [たいらの-よりつな] に滅ぼされている(「霜月騒動」)。 |