手津屋(林田家)

 手津屋(林田家)は、久留米藩領竹野郡田主丸(現在の福岡県浮羽郡田主丸町)に本店を構え、江戸時代の宝暦年間(1751〜63)には藩の御用商人を勤めていましたが、安永年間(1772〜80)の源次郎の代に衰退し、弟・正助は長崎の鉄屋に奉公することになりました。

長崎の正助は、わずか1年半で暖簾(のれん)分けを許され、兄・源次郎の死後には田主丸に戻って家督を継承しました。そして、寛政10(1798)年に新造した廻船で年貢米や薬種などの大坂廻送を藩から請負い、文化6(1809)年からは領内の年貢米の徴収・大坂での藩米切手の買い支えに尽力するなど、久留米藩随一の豪商に成長しました。

さらに、正助は大坂土佐堀二丁目に出店を構え、両種物問屋の内紛に乗じて株仲間に迎えられています。しかし、文化11(1814)年に起きた40万石にものぼる久留米藩の空米切手事件に関係したため、大坂・久留米藩領における商業活動は縮小することになりました。

このように、久留米−大坂間の海運業で手津屋を繁栄させた正助にとって、瀬戸内海の航路図である「海山名所図会」は必要不可欠なアイテムだったのです。

《手津屋正助の墓》